{精霊を追って}

 獲物を見つけるのには経験と常に鋭く尖らせた感覚が必要だ。
 五感のすべてを動員するのはもちろんだが、それぞれの感覚には使い方がある。
 視覚。何かを注視してはならない。常に眺めるように見ることだ。視野のすべてに気を配ると言い換えても良い。そうやって眺めていると、普段見ている風景と違うモノがふと見えることがある。しかし、それでもあわてて注視して探そうとしてはダメだ。落ち着いて、まず見えたような気がしたモノの周辺あたりにさらに気を配るだけで良い。すると再びそれが見える。何か動くモノ、あるいは何かそこには普段ないモノが見えてくる。さらに気を配り続け、そうやって範囲を狭めて行くのだ。変化と異変を感じるのだ。
 聴覚。風や波や足音・潮をかき分けるパドルの音などなど、そこにある音に同化する気持ちを持つことだ。これもあるとき違う音が聞こえるはずだ。そうしたらその音のした方向に少しだけ顔を向ける。再び音が聞こえる。顔を向ける。そうやって少しずつ音を探るのだ。むやみに音の方向を探っても無駄だ。じっくり、場合によっては視覚や嗅覚と併用しながら、あるいは音が反射する大きな物があれば反射の先にある大本を推測しながら少しずつ近づくのだ。
 嗅覚。極寒の世界にはほとんど匂いはないと言っていい。しかし、逆
に何か匂いが残されると、よくわかる。生き物の温もりや営みには匂いはつきものだ。嗅ぎ回るのではない。雪原や海上で何気なくにふと漂ってくるような臭いを逃さないことだ。感じたらすぐに止まり、目をつぶって思いを巡らすのだ。においの記憶は他の知覚の中でもとくに強い。いったいこの臭いが何であるのか、記憶の奥底まで探り、突き止める。そうしてまた、臭いの記憶を積み重ねることもできる。
 触覚。風の温度を感じ、向きを感じ、勢いを感じる。同じように雪や潮や植物のそれも感じることだ。そうすれば、いつ精霊達が訪れるか、どこへそのもの達が行こうとしているのかわかるはずだ。人間は極北の自然の中では裸では生きていくことはできない。しかし、時としてあえて裸の皮膚で自然に触れる必要が生まれるときがある。そうした時にためらってはいけない。動物たちがまず鼻面を突き出し触れてみるように、私たちも手のひらやその他の皮膚で感じることだ。
 味覚。潮にも場所によって実に様々な味がある。風も雪も土もしかり。そうしたモノの変化は、精霊達も同じように感じながら生きている。同じ精霊として私たちがわからないわけはない。
 そうして五感を総動員し、精霊と同化することが精霊と出会うための近道なのだ。